俳句の審査基準に納得がいかない話

この記事は、批判とかそういうわけではなく、昔から本当に不思議に思っていたことを述べる。
ただ、疑問に思っていることを素直に述べたい。

俳句の審査基準に納得がいかない。
というか、俳句ガチ勢は納得しているのだろうか。
いろいろなワードで俳句の審査についてどう思っているか検索したが、納得いかないという声をそんなに見かけなかった。
入賞したい!っていうガチ勢はそんなにいないのだろうか。

俺は国語の授業以外で俳句の応募をしたことがないし、入賞したいと思ったこともないから、入賞しなかったことをくやしいと感じているとかそういう話ではない。
審査に主観が入り過ぎてないか、基準があいまいすぎないか、審査委員のさじ加減で変わる、それで皆納得してるの?っていう話である。
例えば、下に挙げた句を見て欲しい。

第十三回 お~いお茶 新俳句大賞 高校生の部 大賞

 クロールの息つぎを見て恋終わる

・・・う~ん。情景は思い浮かぶ。
しかし、思い浮かぶ情景は2つ。
一つは、息継ぎの際の顔が普段見ることがないブサイクな顔だっため、急に想いが冷めたこと
もう一つは、あまりにも一生懸命な姿を見て、クロールしている人が今後も競技に集中できるように、自分は恋から身を引こう、ということ

それで・・・まぁ自分がどういう情景を思い浮かべたかはどうでもいい。
審査員はどう思ったか。
下にリンクを貼る。
http://www.itoen.co.jp/new-haiku/13/taishou.html

引用すると、

クロールという泳ぎは呼吸の仕方と足の動きがスピードを生む。おそらく四百メートル位の中距離を泳いでいるのであろう。最初の張り切った顔の表情が、疲れで段々崩れてくる。好きだったひとの息継ぐ顔が歪んでくるのを見て作者の心の中で今まで描いていた好ましい像が崩れてゆくのを感じた。

ということらしい。
うん。では書いた人は何を考えていたか。
引用すると、

学校でできなかった俳句づくりを家で考えていた時、ふと「今は女子高でプールもないけれど小学生の頃にはプールの時間というのがあったな」と思い出した。そして当時、プールの時間に男子のクロールの息つぎを見て友達同士で面白がったことを思い出しました。そこでクロールの息つぎする顔を見てしまったために恋が冷めることもあるのかなぁと思って作りました。

はぁ!?
審査員が思い浮かべた情景と全く違うじゃん。
審査員は、書いた人が高校でこういう気持ちになったんじゃないかなぁというのを思い浮かべた。
一方書いた人は、投稿時は高校生だが、小学生の時に「こういう人もいるんじゃないかなぁ」という想像で書いた。

つまり、審査員がどう思い浮かべるかで決まっちゃうの?
俳句ってこういう審査がまかり通るの?
自分は完全に理系人間だから、こういうコンテストとかは授業の一環じゃない限り書かなかったが、文系の人はこれを納得しているの?

俳句の選評って、「ここでこういう単語を使ったから、書いた人の勢いを感じることができた」「ここをあえてひらがなにしたところが、気持ちのやわらかさを表現できいた」「倒置法にすることで、作者の強い気持ちを感じた」とか、そういう表現の技術的な部分を審査するものだと思っていた。
そうではなく、審査員がどう思い浮かべたかが全ての世界なの?

今一つだけ例を挙げたが、これだけではない。
おーいお茶では今までたくさん俳句大賞をしてきたが、割と選評の想像が作者の気持ちから外れていることが多い。

表現の技術的な部分ではないところで、勝手に審査員が想像して、それで入賞かどうか決まるなら、努力の余地がない世界な気がする。
少しでも良い句を応募したいと思い、日々努力をしている人がいると仮定する。
それで、表現の技術的な点が素晴らしい句ができたとする。
でも、結局入賞かどうかは審査員が作者の気持ちを勝手に想像したその想像具合によって変わってくる・・・これについて、俳句ガチ勢は納得しているのだろうか。

俳句の専門家、俳句ガチ勢、俳句の先生方が考えた俳句いくつかと、全くの素人がテキトーにパパッと考えた俳句をいくつか混ぜたら、専門家勢は素人が考えたものかどうか完璧に区別できるのだろうか。

・・・と、疑問に思った話である。
繰り返しになるが、これは批判ではない。
そもそも、コンクールに俳句を応募しない私が批判することは何もない。
この記事の表現は攻撃的になってしまったが、本当に自分の疑問を述べただけである。

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