釣りを趣味にしていると、釣った魚は食べるべきか逃がすべきかという話がたびたび雑談の中で話題に上がる。
僕の感想をいうと、「どっちでもいいし、どっちも間違ってない。」と思っている。
釣った魚は逃がすべきとも思わない。違法じゃない範囲で、各個人に任せたらいいと思う。
しかし、釣った魚は食べないといけない派(以下、食べる派)の人たちは、自分たちの考えを押し付けてくるのが気に食わない。食べない派の人は食べる派に押し付けないのに、なぜ食べる派の人たちは押し付けてくるのだろうか。
傲慢じゃないか。
食べない派の人の考えを否定して、自分が正義だと思っている食べる派の人の代表的な理由である「釣った魚は逃がしても高確率で死んでしまう」に対して、自分の考えを述べようと思う。
ここでは、食べる派という表記をしているが、それは釣ったら食べないといけないと考えている人たちのことを指す。
食べないといけないとまでは考えないが、おいしいから食べるとか、自分は魚を食べるけどそれは義務ではないから食べない派を否定しないとかそういう方々はここには含まれない。
・逃がして死んでも他の微生物が骨まで分解する
これが僕の中で一番の理由である。
釣った魚を食べる場合、骨まで食べることはまれである。ワカサギなどは天ぷらにして全て食べることも多いが、多くの場合は骨と内臓と鱗は食べない。
一方、釣った魚を逃がした場合、その魚が死んだとしても、骨まで他の魚や微生物の栄養となる。ここが食べる派の人と認識が一番違うところである。食べる派の人がよく言う「もったいない」は骨も内蔵も鱗も全て食べる人が言える言葉であって、実際は釣った魚が自然環境の中で死んだ方がより多くの生物に還元されるため、自然にいいのではないだろうか。
・逃がした魚は近いうちに死ぬかもしれないが、死ぬ前に産卵する可能性がある
「釣った魚は逃がしても高確率で死ぬため、食べるべき」という考えももちろんわかるのだが、逃がした魚は死ぬ前に、産卵をする可能性はないだろうか。つまり、死ぬ前に次の子孫を残すのである。産卵期なら当然ありえる話である。
・逃がした魚が死ぬことが、食べた場合と比べてどれだけ自然に悪影響を当たるのか
釣った魚を逃がしてそれが高確率で死んだとしても、釣った魚を食べる場合はその魚は必ず死ぬ。つまり、逃がしても逃がさなくても自然に対して悪影響を与えないと思っている。
むしろ、逃がすことによって、先ほども述べた自然への還元が人間が食べた場合と違うので、自然にいいと思っている。
ここでは、乱獲レベルでの釣り以外の場合である。乱獲レベルでの釣りの問題は、食べる食べないとはまた別の話である。
・「命がもったいない」なら餌釣りする人は残った餌は全て食べるべき。それ以前に釣りしないべき
「命を粗末にするな」という道徳の話がある。それはまた別の話なのでここでは言及しないが、その話をこの食べる食べない論に持ち込む人がいる。
その「命を粗末にするな」とか「命がもったいない」という関係のない話を持ち込むなら、釣りをするべきではない。
まず餌釣りはそもそも命(餌)を粗末にしないと始まらない。
「魚は命がもったいないから食べるべきだが、餌は廃棄する。魚と餌では命の重みが違うから」という論理は少し無理がある。
また、餌を使わないルアーにしろフライにしろなんにしろ、魚がかかった際のラインブレークはつきものである。
「わざとじゃないので口にルアーが残ったまま逃がしてしまっても平気だけど、釣れた魚に関しては命がもったいないから食べるべき」とはこれもまた少々暴論すぎないだろうか。
僕は、釣りを趣味とする以上、ある程度命の軽視はしょうがないと思っている。
それに対して、かわいそうとかもったないとか言う人は、ただその人自身の罪悪感を軽減させるために言っている感情論にしか聞こえない。
(人ではないものに対しても)命を無駄にしてはいけないというのは、小さいころからの学校での道徳教育が身についている結果ではあると思っているが、そもそも学校での道徳教育が正しいと決めつけることに対して僕は慎重である。
ただ、釣りに関して乱獲を肯定しているわけではない。
子孫が残らないような釣りはするべきではないとは思っている。
これは、命がどうとかではなく、魚が増えなければ自分の楽しみもなくなってしまうためである。
この考えが、エゴイズムだとは自覚している。
僕は、「自分の考えを押し付けるな」と言いたいのではない。それなら、「僕が【食べる派の人は食べない派の人に自分の考えを押し付けるな】という考えを食べる派の人に押し付けている」という矛盾というか、堂々巡りになるからである。
だから、食べる派の人は食べない派の人に考えを押し付けるなとは思わない。そういう行為は自由だ。
でも、そういう行為が嫌いだし傲慢だと思うし僕は従わない、という話である。