「われ思う」のはだれか

「われ思う、ゆえにわれあり」
これはデカルトが残した有名なセリフの一つで、哲学にまったく興味がない人でも聞いたことがあるはずである。

これはどういう意味なのか、世に出回っている程度の知識しか私ももっていなかったが、ここでいう「われ」は自分ではないのではないか、とふと疑問に思ったので考察してみた。

まず世に出回っているこのセリフの意味について、説明しておく。
デカルトは、本当に疑いえない真実を見つけ出すために、一度すべてを疑うということをしてみた。その結果、世の中のありとあらゆるものはその存在を疑うことができ、存在していると証明することはできない。しかし、唯一その「疑っているという自分の思考」自体は間違いなく存在している。だから、自分の存在は証明できる、ということらしい。

これは高校の倫理で学んだものをうろ覚えで書き起こしたものだが、ネットで見かける情報も微妙な違いはあるが、自分の存在を証明しているセリフということでは違いはない。この意味を最初に聞いたとき、正直かっこいいと思った。こういうアプローチで自分の存在を証明したのかー、と。さすが歴史に名前を残す哲学者は違うなと思った。
このセリフは、国語の長文問題でも取り上げられるくらいの有名さである。

しかし、つい最近これは本当に自分の存在を証明したセリフなのだろうか、と疑問に思うようになった。私の疑問を突き詰めていくと、このセリフに出てくる「われ」は自分ではないし、あの偉大なデカルトがそれに気づかないわけがない、と思っている。あの偉大なといってもデカルトについては高校倫理程度しか知識がないが。

私が、この「われ」が「自分」を指していないのではないか、と思った理由について述べる。

哲学者ではない我々一般人による一般的に世の中に出回っている解釈でいえば、「全てを疑った結果、この疑っている自分という存在は疑いえない」とある。
この疑っているという思考は存在しているかもしれないが、はたしてそれは自分から発生してるものだろうか、とデカルトが疑わないはずがない。なぜなら、全てを疑ったからである。

もし仮に、この疑っているという思考が自分から発生してるものだとしたら、デカルトはそもそも存在を疑うことができない「疑っているという思考」とともに、自分の存在も疑っていないことになる。
自分の存在は疑っていないのに、結論とし「われ有り」と自分の存在を肯定していることにはならないだろうか。

疑っているという思考をしているからこそ、自分は存在している

ではなく、

自分という存在が疑っているという思考をしているからこそ、自分は存在している

ということになりえるのではないだろうか。
デカルトは本当にこの矛盾に気付かないのだろうか。

この「われ思う」の「全てを疑っているという思考」は誰目線なのか、ということである。
自分目線だとおかしくなる。なぜなら、自分の存在も疑わしいのに、自分が「全てを疑っているという思考」を認識したとしても、その認識自体も疑わしいではないか。

そして、存在が怪しい自分から発生された「全てを疑っているという思考」もまた、本当に存在するのであろうか。

これが、「われ思う ゆえにわれ有り」の「われ」は本当に自分なのか疑問に思った点である。

ここからは持論となる。

全てを疑った際に、その疑うという思考は存在するという前提におく。この思考が存在しないと、疑っていないことになるからである。
そもそも、この前提に異論がある人もいるだろうが、話を進めさせていただきたい。

そして話の前提としてもう一つ。
まだ自分の存在は疑わしいということである。
疑っているからこそ疑うという思考は存在するが、その思考は自分でなければならないということはない。誰かが疑っていても、疑うという思考は存在し、かつ自分はまだ存在を証明できていない状態はありえるからである。

この疑うという思考が、自分によるものかもしれないし、だれかによるものかもしれないが存在するとして、その疑うという思考は誰が観察しているのだろうか。
誰が把握している?誰が疑うという存在を認識している?

他人が疑うということをしていたとして、自分はそれを知ることができるだろうか。
A君が「僕、全てを疑ってますよー」と言ったところで、A君の脳をカパっと開けて中を見ることはできないし、仮にできたとしてもそれが現実かどうかはわからない。

デカルトは、夢の中で何かが起きた時、それは夢の中では現実だと思っているはずである。だから、現実で起きていることも夢かもしれないし、現実だと思っていることを現実の出来事だと決めつけることはできない。とか言っていた気がする。

これは映画「マトリックス」で一躍有名になった現実に起きていないことを現実だと思い込む考え方である。最近だとVRという単語で広まっている仮想現実の可能性である。

話を戻すが、A君の思考を完全に「自分」が理解したとしても、それ自体が夢かもしれない。
「自分」は仮想現実に生きているかもしれないし、仮想現実ではないにしてももしかしたら今もまだ夢の中かもしれないので「自分」の存在は証明できない、他者の「全てを疑っているという思考」も疑わしい。
それなのに「疑っているという思考」自体は存在している。

では自分でも他者でもないだれが「全てを疑っている」?

それは、「全知全能の何か」ではないだろうか。

哲学では、しばしば言葉で表せないものを言葉で表そうとする試みがなされる。
自分でも他者でもない疑える全ての存在の枠の外の、疑いようのない何者かが全てを疑うという思考をしていると考えられる。

中世のヨーロッパでいうならば、それを「神」と表現したのではないだろうか。
この「神」は「全てを疑う」という思考自体も創造した。
だから自分で全てを疑った場合、自分の存在は不確かだが疑うという思考は存在し、その疑うという思考を認識、もしくは観察しているのは「神」の目線ではないだろうか。
今は仮に「神」と表現しているが、つまり全知全能の全てを作った創造主である。

創造主の存在は不確かではないか

と疑問にも思ったが、つまり創造主が全てを疑うという思考を創ったのではなく、ここでは全てを疑うという思考を創った何者かを創造主としている。
疑うという思考が何から発せられたかではないのである。
それは、自分という不確かな存在からかもしれないし、他者という不確かな存在からかもしれない。
しかし、不確かなものから発せられたとしても、その疑うという思考自体は存在しているのは間違いなく、存在しているからには言葉では表せない何者かがその存在を認識している。

言葉で定義できない何者かを、仮ではなく正式に定義してしまったら、それは不確かな存在かもしれない自分による定義になってしまう。だから、創造主でも神でもいいのだが、仮としてそういう言葉でここでは置き換えておく。

創造主(仮名)
神(仮名)

みたいな感じで。

全てを疑うことによって、疑うという思考自体の存在はゆるぎないものであることがわかったので、その思考を認識している言葉では定義できない存在の枠の外の何者かがいるのではないか

だから「われ思う ゆえにわれ有り」でいうところの「われ」とは自分のことではなく、言葉で定義できない何者かを指すことによって、神の存在を証明したのではないだろうか。

この記事では、デカルトの考えが正しいとかどうかを書きたかったのではなく、あくまでデカルトは「われ思う ゆえにわれ有り」で自分の存在を証明したわけではない、ここでいう「われ」は自分のことではないんじゃないか、という考察を述べたかっただけである。

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